外部から来た人間の印象として、長野市を通過するのはバイパスと峡細路しかないな‥って印象。(注:五輪前)
そんな、信号に表示された地名に『氷鉋』って珍しい地名が‥『鉋』は当然読めたのだけど、“ひがの”と読むとは‥後に仕事で氷鉋サンって方と一緒になってフンフン‥珍しいね。やっぱり昔の名士由来の姓なのかな?って‥調べてみたら‥
そんな、信号に表示された地名に『氷鉋』って珍しい地名が‥『鉋』は当然読めたのだけど、“ひがの”と読むとは‥後に仕事で氷鉋サンって方と一緒になってフンフン‥珍しいね。やっぱり昔の名士由来の姓なのかな?って‥調べてみたら‥
氷に鉋で『氷鉋(ひがな)』と読んでいたのが『ひがの』に変わったと考えられるとのコト‥。 『ひ』は「泥」などを意味し、『か』は川の約語で、『な』は土地をいう古語とのコト。 だもんで『氷鉋』=『川沿いの湿地』とのコト‥
湿地とのコトだけど、仕事でこの辺りを何度か掘ったコトあるけど、意外と地下水位は低く刈ったな‥まぁ、犀川の扇状地だし教科書通りだと扇状地は果樹に向いて水田に向かないトコだよね‥それでも、善光寺地震後の犀川氾濫時には水没とは‥いやはや‥
鎌倉室町時代に『氷鉋郷』が置かれ、 明治5年(1872)下氷鉋村・広田村・藤牧村・上小島田村・青木島村の5ヶ村で、『作新学校』が下氷鉋村善導寺に開校される、このへんが“教育県”と自称する由縁なのかな? 明治22年(1889)市町村制施行により更級郡中氷鉋村・下氷鉋村・田牧村が合併し『稲里村』となる。 昭和30年(1955)に、旧稲里村が真島村、小島田村、青木島村と合併して『更北村』となる。 昭和41(1966)に 更級郡更北村、 (旧)長野市、篠ノ井市、更級郡川中島町、同郡信更村、上水内郡七二会村、埴科郡松代町、上高井郡若穂町と合併。いわゆる「昭和の大合併」《出典:wiki?》
そんな犀川の扇状地なんだけど、湿地って‥地形図の記号を検証すると低地は水田の様だけど、微高地は桑畑だった様な‥○○島は微高地に名士の名を付けた地名と言うのが長野市民トリビアとのコト‥ そんな水田地帯の長野日本無線㈱や新光電気工業㈱等々の工業団地誘致と物流拠点誘致に成功?して‥この明桂寺はチョッと判り難いホームセンターと上記の工場の裏手にひっそりと佇んでいる‥バイパスから離れていたので静かな集落が残ったとも言うけど、チョッとアプローチ道路の幅員が難‥


犀川の少し下流の南岸、綱島小中島に居城した郷士の綱島氏が開基とされる曹洞宗の寺院で、川中島の戦いのころ、綱島氏は武田方に属し、綱島城とともにR18綱島交差点付近にあったらしいけど、元文2年(1737)の犀川大洪水で流失したため此処に移転、再建されたとのコト‥。※注:後日檀家の方から当時の綱島氏は上杉方だったとのコメントがありました‥。当方の裏取りしないコピペの書き込みで誤報だったのかな?上杉方との出典を乞います‥。


境内に入ると左に稲荷神社があり、大きな石碑が二つ‥
石碑跡には、樹齢三百年の樹高18m、根元周5mもの松の木『おたすけの松』があったそうだ‥。
弘化4年(1847)の善光寺大地震による犀川上流右岸の虚空蔵山の崩壊が河道閉塞があり、20日後に決壊し押し寄せ浸水被害をもたらした。小市地籍犀口付近で20m、千曲川合流地点で6mとのコトで、日本海に約一日で到達したと言う‥。 この明桂寺でも水深5尺に達し人々は庫裏の二階や境内の松の木に登って難を逃れたとのコト‥。昭和34年の大雪で樹勢が衰え、平成6年(1994)に伐採された‥《‥。
それにしても20mに6mってチョッと眉唾‥。上流の氷鉋で1.5mなのに下流の合流地点で6mってもちろんいちばん深いトコの痕跡で計っているんだろうね‥(^_-)
【追記】
少し加筆して見直したけど、犀川の大洪水で現在地に来たという割に、境内に大洪水から住民を何人か助けた『おたすけ松』が残っていた‥とは‥少しチグハグな感があるけど、移植したのか?境内地がかなり広大だったのか?後者かな‥