牛歩村日記? Like a snail's pace?

日々平穏に暮らしていれば、自から幸せになれると言いますが‥?いろいろ雑音が‥

母と初冬の散歩‥

言った‥。言わない‥。 食べた。食べてない‥。
記憶は何かと複合した方が脳の引き出しに整理し易い様だ‥ だもんで、話をする替わりに散歩をした‥

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まずは、近所の沼。ぼくの釣り発祥の池ですな‥。母もデジカメで写真を撮りながら‥
あーじゃない‥ こーじゃない‥って、カメラの撮影講釈‥。判るかなぁ~?
余計なオート機能が、撮りたいモノを撮らせてくれない‥。オートとはなんと不便なモノ‥

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この沼の土手の桜の下で、家族で花見をするのが夢だったけど、敵わぬ願いとなってしまった‥
昔は、アノ排水枡?の上が釣り場の一等地で、よく当時の釣り人同士で争ったモノ‥
水位も60㎝位下げた模様。深くても浅くても溺れる時は溺れるよね‥。

釣りも禁止になってしまった様子。なんでも禁止にしてしまうのが、行政の手抜きな対応だよね‥
如何に事故の無いように利用して貰うか‥?まったく工夫をしないで、禁止してしまう‥
これじゃぁ、ガキどもはゲームで遊ぶしかないよね‥。

そもそも、農業用のため池で営農者も減って池を自主管理する人達が絶えてしまって、なんでも行政に押し付ける事態になってしまったからなのかな?

時代の流れなのか、パソコン叩いた方が就業の機会がある世の中にしてしまったのだからしょうがない

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沼の流末の水路にはシジミが沢山‥。外来種なのか在来種なのか判らないけど、今でもたくさんいる様子
この流末の土側溝にいろいろな生き物が居て、ボクの第一次産業的な好奇心を満たしてくれたし、他の子供(当時の仲間も‥)それらに興味津々だった様だったけど‥

でも、確かに。近所のガキの中にも泥だらけで遊ぶのを好まないヤツも居たよな‥。ナニやって遊んでいたんだろ‥?

近所のため池(沼)の後は、東に向かって‥かつて父が野宿している母校の後輩を拾って来て風呂に入れたと言う父らしいエピソードを生んだ‥。その大学生が野宿して居た氷川神社を経て帰るつもりだったけど‥、調子が出て来た母親が、「○○池って知ってる?」って言うので、聞いたコト無い池なんでついて行く事に‥。

父と母が、この地に越して来て半世紀チョッと‥。二人で最近まで歩いた景色を見ておいた方がいい‥

ボクが子供の頃は、まだ関越自動車道は川越までしか来ていなかったよな‥。このバイパス工事のダンプが多くて、チョコチョコ歩き回るボクを心配して、父が家の庭に柵を作ってくれたと言う‥。
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このバイパス辺りは、これまた農村部の学区とも違って‥おもえばボクのウチは3学区の境界に接していて、今の地政学でいえばシリアみたいな立ち位置で他の友達が学校内だけでの抗争に始終しているうちに常に異邦人との紛争に和平にと立ち回って居たコトを思い出すね‥。なんだそりゃ‥

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『おため池』って母は呼んでおり、案内板を見れば確かにソウ書いてある。散策中のオジサンが母を捕まえて色々説明をしてくれた。昔はこの池で泳いだり洗濯したりしたと言う‥。なにやら近所に何がしかの“たたり”があったとのコトで‥石碑を建て直したそうな‥

『おため池』は、青鳥城の三郭の堀の一部とのコトで、隣を通過する関越自動車道の工事によって水源は絶たれ湧水の水勢は衰えたけど、なんとか水面は保たれている‥。昭和の『イケイケドンドン』の開発時なら「然もありなん」な事象ですな‥。関越自動車道によって、旧城郭は分断され、地域コミュニティも真っ二つですな‥。うるさいし、排ガスはまき散らされるし‥。いい事ないね‥。
青鳥城(おおどりじょう)は、武蔵国比企郡石橋村にあった日本の城。県指定史跡。
イメージ 11比企丘陵と岩殿丘陵に挟まれた松山台地上にあり、城の南方1kmには都幾川が流れている。
構造は城の南端に一辺約100mの方形の本郭があり、それを取り囲むように北に二の郭・三の郭が広がる。城全体の規模は東西約700m、南北約400mであり、中世城郭としては巨大なものである。

築城の年代は現在不明であるが、『太田道灌状』には文明12年(1478年)に、扇谷上杉定正太田道灌が青鳥に在陣したという記述があり、この頃には城(あるいは城の原型となるもの)はあったと推定されている。 
            
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐において豊臣氏方の前田利家上杉景勝らが後北条氏方の松山城を攻める際、前田利家は廃城となっていた青鳥城跡に陣を置いた。とのコト‥

北條早雲(1432?~1519)に臣従した山田家の山田伊賀守直義の嫡男、山田伊賀守直定は腰越城主として見られたが、1562年に寄居・赤浜にて、上杉謙信の軍勢であった太田資正と戦って討死したため、弟の山田伊賀守直安が青鳥城主となった。兄の死後、家督を継ぐ。松山城代として前田、上杉家と戦うも四月十六日に落城。北条家滅亡後、徳川家に仕え三百石。慶長五年二月没。とのコト‥
《出典:主にWikipedia

陽も翳って来たので、ソコからはなるべく直線で実家まで帰りました。
母にとっては父が亡くなってからの久々の散歩だったらしく、気分転換になったとのコト‥
ボクは、関東地方の乾燥した空気で喉を痛めてかなり風邪をこじらせて、フウフウいいながら帰長する‥
でも、いい思い出づくりになった‥ かな?