牛歩村日記? Like a snail's pace?

日々平穏に暮らしていれば、自から幸せになれると言いますが‥?いろいろ雑音が‥

洛中路地ぶらり‥

路地好きな我々だけど、路地の本場の京都市内に来たのなら徒歩で巡らねばない‥と思ったけど、巡らなくても移動中、そこいらじゅうに路地があった。
下図の太線で囲った区域が平安京あたり‥
イメージ 13 貴族や寺院の勢力が集まる大和国からの離脱の為に桓武天皇は784年に平城京から長岡京へ遷都したが、僅か10年後の794年山背国北部の葛野への再遷都を行い“平安京”と名付ける。
 市内は東西南北に走る大路小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられ、東西方向に並ぶ町を4列集めたものを「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町に番号を付け、それぞれを「右京五条三坊十四町」のように呼んだ。 道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上。朱雀大路は28丈(約84m)あった。

イメージ 14 そんな平安京だけど、810年に再び平城京に都を戻す動きが起こるが、嵯峨天皇平安京を「万代宮」と定められる。が、鎌倉幕府江戸幕府の成立により行政府としての機能を失い室町時代後半から戦国時代にかけて「応仁の乱にて市街地の過半を焼失。秀吉が『天正の地割』で活気を取り戻したもの、江戸時代には行政機能は江戸へ、明治時代になると東京奠都にて留守の都となる。
図子(辻子)と路地 の違い
地割の内部に連絡する為に作られた路地の多くは袋小路で、通りからの入口には門が設けられたり家屋の二階が上を覆っている場合もある。また、袋小路の路地の突き当たりを貫通させ通路としたものを図子(ずし)と呼ぶ。路地と異なり、一般の通り抜けが認められている。
 京都における路地はきわめて内部的なもので、部外者の通行が自由である通りとは画然とした区別がある。 道幅は人の擦れ違いが出来ないようなものから、軽自動車が行き違えるようなものまで様々。
天正の地割』
イメージ 15京内は40丈(約120m)の正方形状の町に区画され、これらの区画は当初貴族の邸宅や官吏の住居に利用されて、建物が直接通りに接するか否かでの有利不利は特になかった。しかし商業が発達してくると、通りに面した位置が有利であることから、間口が通りに向いた形の建物が増加した。室町時代にはほぼすべての建物が間口を通りに向ける形になり、同じ通りの両側の地域が一つの「町」を形成するようになる(両側町)。一方、通りに接しない正方形の中心部は空き地などになり、あまり利用されていなかった。

イメージ 161590年(天正18年)、豊臣秀吉は南北方向の通りの中間に新たに通りを建設し、これまで空き地だったところを新たな「町」にした。これは聚楽第御土居の建設、寺院の寺町への移動などと並ぶ秀吉の京都改造事業の一貫である。これにより京の街路は南北120m、東西60m間隔で長方形状に区画されることとなり、現在に至っている。

そんなアレコレは帰宅後に調べたのだけど、僕らは細い路地があれば吸い込まれる様に吸引されてゆく‥
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どうも、この間“世界ふれあい街歩き”のパリオペラ座界隈編で観たパサージュ(passages)に似ているな‥
自転車でうろつく人達とも多くすれ違ったけど、やはりペタペタ歩くに限るね‥