牛歩村日記? Like A snail's pace?

日々平穏に暮らしていれば、自から幸せになれると言いますが‥?いろいろ雑音が‥

保津峡と柚子の里『水尾』

その日は京都市の隣の亀岡市から京都市内に向おうと考えた‥
R9(京都~下関)でクネクネと連れ込みホテル街を抜けて普通に市内に入るのもいいけど‥

地図を眺めていたら名勝“保津峡”を経て嵯峨野辺りに至る県道?があるらしい‥
亀岡市の郊外は地方都市がソウな様に、主要道路の全国チェーン店の看板が無くなれば全くの田舎道‥
保津峡川下り”の船着場へ、助役サマは昨日の茹だる様な暑さでたまには舟下りで涼を求めているらしい‥けど、当たり前だけど要予約、連休だし、だいいち帰って来れる嵯峨野観光鉄道トロッコ列車も予約制‥

ちなみに‥
 保津峡川下りは、かつて丹波の産物を京に運搬する為に、京都は嵯峨出身の豪商の角倉了以(すみのくらりょうい1554-1614)が狭細部を開削して高瀬船を通れる様にしたモノ‥
 角倉了以以後、高瀬川開削を2代に渡り開削し、鴨川から伏見辺りの淀川の東高瀬川、嵐山からへ市内への東高瀬川へと物流へで富を得る。ちなみに寺田屋の前を流れる高瀬川も角倉によるモノ‥
慶長12年(1608)駿河富士川の開削を成功させ、家康に認められ同年天竜川では失敗‥
 祖父がはじめた朱印船貿易で莫大な富を得る事を知った角倉了以は、土木技術者である前に強欲な商人だった。ってコト‥角倉町の地名が嵯峨に残っている。
 角倉了以は莫大な資金を投じて開削し、水運による収益をすべて独占した。
荷を降ろした高瀬舟は人に曳かれて右岸に造られた舟曳路を戻った。(現在の遊覧船はトラックにて輸送)近世まで主要な物流路だった舟運も木材需要の減少と山陰本線の開通1899年(明治32年)によって役目を終えた。
 舟運の減退後、嵯峨嵐山に近いコトで明治28年に遊覧船の川下りが始まる。漱石、桂月、三島の文学にも登場、読んでいないので判らないけど流行の景勝地だったのだろう‥
山陰本線蒸気機関車の単線だった訳だけど、平成元年(1989)の複線電化に伴い嵯峨~馬堀間が開業し、旧路線は廃業。が平成3年(1991)に観光列車としてトロッコ列車の運行が開始し、舟下りとトロッコ保津峡の周遊が完成。
ソウは言っても、五月連休にアポなしで乗船でいるモノではない‥

助役サマはプロの舟下りの“ラインどり”を研究したいという‥


そんなこんなで亀岡から保津峡を迂回する府道401が不通なので、七谷川から林道?を山中に入る。
長野県の山奥の狭細路と変わらない‥クネクネ、クネクネ走ると民家が現れ、府道50号(京都日吉美山線)に接続‥2桁府道でコレで太い道かとホッ!としたけど、全く道は太くならない‥ トホホ‥

クネクネと府道を京都方面に向うと、水尾と言う集落にでる。

 水尾は、山城国(現京都南部)と丹波国(京都府中部)の両国を結ぶ愛宕街道にあり、第56天皇清和天皇が譲位後、丹波国水尾の地に入り隠棲の地と定め、のち崩御
 
柚子湯の看板がある。ん!周りを見れば柚子の木だらけだ‥
車を停めて写真を撮りたいけど、道は狭いし駐車場所も無い‥

なにやら、柚子の産地で収穫シーズンから冬季には柚子風呂を楽しみ地鶏での水炊きを楽しめる家庭が開放(要予約)されるらしい。週末は4名以上の予約制で平日なら2名でも可。ただし宿泊は出来ないらしい。

柚子大好きっ娘(オバサン)の助役サマは眼を見張っている‥。今度は晩秋っ!って鼻息を荒くしている‥
更にクネクネ道を京都に向う‥
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やっと道が太くなったと思ったら保津峡駅。複線電化された山陰本線のトンネルとトンネルの間の保津川を横断する橋上にある。駅の対岸を嵯峨野観光トロッコの旧山陰本線が走る。ちなみに先程の水尾集落からも柚子湯シーズンにココまで送迎がある。京都駅まで230円!都会に近いのに秘境っ!

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駅を過ぎればまたもクネクネ山道。落合橋の上で太極拳を舞う変なヒトなんかがいる‥
東海自然歩道と京都1周トレイルが横断している。コレも行く先々で出会う歩道‥いつかはこっちも走破せねばならない‥
ここ清滝川の上流には嵐山から愛宕山鉄道があり、愛宕山の参詣の基地となっていたという。愛宕山は言わずと知れた空母愛宕の名前の元の地で、明智光秀が信長を討つ前日に愛宕神社で祈祷をしたトコ。
さっきの水尾からの道は“米買道”とも呼ばれ嵯峨野から米、水尾からは鮎を運んだらしい。
写真の街道はなんだろ、旧道みたいだ。

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山地を抜けやっと平らになった嵯峨鳥居本では、チョッといい感じの石畳の道が残り0有名な鮎料理屋平野屋がある。今度来てみよう。
ソコからはかつて愛宕山鉄道だった線路跡を通り嵐山界隈へ至る‥  《つづく》