牛歩村日記? Like a snail's pace?

日々平穏に暮らしていれば、自から幸せになれると言いますが‥?いろいろ雑音が‥

嵯峨野と竹林

 嵯峨野とは京都市の北西側愛宕山麓の南側の平地で小倉山の東、で桂川の北側を指すとのこと
地名の由来は、険し(さがし)等の地形に由来する説と中国西安郊外の地名からとった説がある。

 古来、太秦(うずまさ)を根拠としていた豪族の秦氏によって開発が進められ、平安遷都後には、風光明媚なため天皇や大宮人たちの絶好の遊猟行楽地だった。嵯峨天皇離宮嵯峨院を造営して居住し、その崩御後に外孫の恒寂入道親王がこれを大覚寺として改めた。嵯峨野は「禁野」とされ、以後貴族・文人などによる山荘、寺院建立が相次ぎ、藤原定家がこの地に小倉山荘を造営してここで小倉百人一首を撰んだ。

 第52代嵯峨天皇(786-842)は、皇子皇女が49人居たと言われ、生活費の財政圧迫から皇族の整理を行い多数に姓を賜り臣籍降下させ、源氏姓などが成立した。

 江戸時代初頭(1606)に角倉了以保津川を改修して大堰川を開いて以後、嵯峨は丹波と京都をつなぐ水運の要地となり、木材などを扱う問屋などが並ぶよる。明治以後に変遷を経て、明治36年(1903)に葛野郡嵯峨村となり、大正12年(1923)に嵯峨町となって、昭和6年(1931)に京都市編入された。
 その後、昭和45年(1970)に新丸太町通が開通して急速に発展した。

 嵯峨野は、野宮神社周囲に自生する真竹の竹林が有名で「野宮竹」と言われる。天皇即位式大嘗祭」でも使用される。野宮神社伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられる。野宮神社の周囲を取り囲むように自生する真竹の竹林、それが嵯峨野の竹林と言う事になる‥
 地鎮祭などの神事で四方に「忌竹」または「斎竹」と呼ぶ竹を立て、この竹の間に注連縄を渡し域内が神の降臨に相応しい清浄な聖域であることを示す、野宮神社の周囲の竹林はコレに倣っていると考えられる。

ちなみに平安以前に嵯峨野で竹が自生していたかは不明‥

朝早くの嵯峨野界隈は静かな物だ。
渡月橋から嵐山を眺め、確かにわが故郷の隣町の武蔵嵐山町の景色に‥う~ん‥似ていると言えば似ている‥
渡月橋の少し上流に葛野大堰(かどのおおい)と呼ばれる農業用の堰をみることができる。
この堰は、昭和26年に府が造ったもだが今からおよそ1500~1600年も昔に秦氏(はたし)によって同じ場所に堰が築かれていたとのコト‥水路は今も現役‥

仕事の準備をしている人力車を横目に山陰本線の踏切を渡り、小倉山側から野宮神社の裏に廻る。
トロッコ嵐山駅の脇に車を一時停車‥。そそくさと竹林の小径へ‥
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右が大河内山荘。400円で内覧出来る。小柴垣がきれい‥陽が高いとゾロゾロ人が歩いているのかな?

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他県ナンバーの車がブンブン入って着てしまって、はた迷惑‥まぁ、違法駐車の僕らも一緒‥
大正から昭和の俳優の大河内傳次郎のギャラをつぎ込んで整備した大河内山荘からチェーンソーの音がブンブン聞こえてなにやら騒々しい‥

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助役サマが違法駐車を心配するので引き返す‥。トロッコ嵐山の駅から線路を見下ろす‥

イメージ 6緑で囲った範囲がいわゆる嵯峨野ってよばれるトコ
武蔵に武蔵野、安曇に安曇野って“野”が付くと範囲がチョッと広がるのかな?

ちなみに京都で竹と言えば、エジソンが1882年白熱電球のフィラメントとして利用したモノが有名だけど、コレは京都市の南方の石清水八幡宮境内の竹林のマダケ。この竹林からは発明の翌年から10数年もの間多くの竹がアメリカのエジソン工場に輸出された。

【参考資料】 大河内山荘 野宮神社