牛歩村日記? Like a snail's pace?

日々平穏に暮らしていれば、自から幸せになれると言いますが‥?いろいろ雑音が‥

県名勝『玉淀河原』界隈‥

3年前の晩秋(12月上旬)に風布でミカン狩りをした後に、寄居町のノスタルジックな市街地の東武東上線玉淀駅や荒川橋梁、水天宮と立ち寄った際‥

川沿いにそのまま左岸沿いに上流に向かうと‥『雀宮公園公開中』という真新しい看板‥
なにやら『七代目松本幸四郎別邸跡』が寄居町に寄付?&一般公開されている公園とのことで、近くのセブンイレブンで買い物をしたついでに(はじっこに駐車させて戴いて)舐める様に散策した。紅葉(モミジ)&楓(実は同じ)の多い庭園で、当日は曇天ってコトもあり、葉の上で西日の反射もなく影もなく、コレが紅葉(コウヨウ)をより印象的に魅せてくれた‥。
 ボクが半世紀弱見てきた秋の庭園でももっとも綺麗な庭園だったのでは‥。無料だし(^_-)-☆
雀宮公園の旧七代目松本幸四郎別邸に掲げてあるサインによると‥以下
「七代目幸四郎は、1913(大正2)年、自然豊かな景観を愛し、この地に別邸を新築。その際、祝賀会の招待客は長瀞から船下りを楽しんで別邸下に着き、「絶えず打ち上げらるる花火は山に響き川に伝わり、未曾有の盛大なりき」と当時の新聞に報じられた。 「この別邸は、「雀亭」と称され、幸四郎の心の安らぎの場として、そしておもてなしの場として、こよなく愛された。
玉淀ダムがなかったから、舟下りで来たんだねぇ~東京電力に川水売って、左岸の灌漑に供しているのかな?
どうせなら、『雀宮公園』でなく『雀宮庭園』にして欲しかったなぁ~前者だと。砂場、鉄棒、ブランコがありそうだし‥

帰宅後にその公園と玉淀周辺について調べていたら‥
セブンイレブンの前の県道の向こう側に素敵な割烹旅館が在ることを知った‥。ナニナニ、宿泊せずとも食事のみも可っ‥!
大正から昭和に掛けて活躍された佐々紅華(さっさこうか)さんの御自宅だったそうで、没後、親族の方が貸間食堂を営みその後、割烹旅館と変わったとのコト‥

なんで寄居に‥って‥チョッと思ったけど、此処はボクより2世代ほど昔の大正期とか昭和の初めとかは、かなりの観光地で、鉄道の延伸に伴って資本と人が流入した‥のかな?この間のブラタモリ長瀞編は今でも年間270万の観光客があるって公表していたけど‥(※長瀞の場合)

今の住まいの長野県の観光地の雄である善光寺なんて、6年に一度の“御開帳”という祭りの2か月間の期間に600万人の人出って主催者?警察?発表がある様だけど、コレも眉唾発表で善光寺界隈整備に予算を投入させるために、“鉛筆なめなめ”してヒトを呼べる施設との既成事実を公的に裏付けさせているのだと‥ボクは思っているけどね‥。
 60日間の朝8時から夕方5時までの9時間にフルにぞろぞろ参拝客があるとして、60日間‥。600万人÷9時間×60日間=11,111人/時間‥ 警官が人々の塊の移動を目視で笊計算しているんだろうけど‥これ如何に‥

『玉淀河原』は、昭和10年の埼玉県指定名勝で、北条氏の居城だった鉢形城寄居町の市街地の間にある凝灰岩の岩盤が露出した河原のコトで‥、『水が緩やかに流れる様を玉の色に見立て、『玉のように美しい水の淀み』ということから命名とのコト‥
もちろん河原の右岸(南側)の崖の上は戦国時代の関東を納めた北条氏の居城‥。現在は素敵な遺構が寄居町で整備されている‥。けど、当時(大正期)は荒れ放題だったそうな‥

イメージ 1荒川に削られた岩盤上の左岸(北側)には前述の七代目松本幸四郎さんの『雀宮亭』という別邸が大正2年(1913)に新築された‥。その祝賀会の招待客は長瀞から船下りを楽しんで別邸下に下船したとのコト‥に着 き、「絶えず打ち上げらるる花火は山 に響き川に伝わり、未曾有の盛大なり き」と当時の新聞に報じられた。 「この別邸は、「雀亭」と称され、幸 四郎の心の安らぎの場として、そし ておもてなしの場として、こよなく 愛された。

イメージ 4あったとのことで、現在の寄居町の町民の文化的なこころの支えとなっている‥。感じ‥。また、同じころにアノ宮沢賢治さまが学生時代にこの地に地学見学で音連れ、何首か詩を読み歌碑が残されている。玉淀河原のチョっと上流にある『玉淀ダム』は、昭和39年(1964)に竣工したのだからそれまでは、3年前に完成した旧大滝村二瀬ダム(昭和36年竣工(1961))なんだから、豊富な流量で今とは違った景観と流れの音景を構成していただろうな‥。そうでないと、戦時下では鉢形城へのハザードにもならないね‥この僅かな流水では‥
 富山の黒部川の黒四ダムの下流の『下の廊下』みたいですな‥。埼玉県企業局の管理する玉淀ダムは、荒川中流域の左岸の灌漑と東京電力への発電のための河川水の供給が主な任とのコト‥。なにやら平成20年(2008)に、玉淀ダム撤去促進期成同盟会が結成され、及び腰の埼玉県に対抗して運動が起きているとのコト‥。熊本県球磨川でのダム撤去の事例もあるし、今後も注目が必要ですな‥

僕も昭和50年代に地元サッカー少年団の慰安旅行(川遊び)で、玉淀河原に来たコトがあり、露頭に縦方向に走る溝状の流水に流されたりして遊んだモノ‥。ポッドホールみたいな箇所もあって、なかに石の球がないか探したけど‥。
十数年ほど前に花巻市北上川の通称“イギリス河原”に行ったときに、「コレって玉淀の露頭に似ているっ!」って、感じていたら‥後に‥調べていたら玉淀にも宮澤賢治さんは、 大正5年9月3日、盛岡高等農林学校在学中に土壌地質調査研究に来ているとのコト‥だもんで、近くに歌碑が設置されている‥らしい‥。
行った先々で、詩詠んで石碑が残って‥って凄いね‥。教祖サマだね‥

イメージ 2東上線が寄居まで延伸されたときは玉淀駅はなかったんだねぇー。
正喜橋は吊り橋からたぶん木製橋梁になっていたんだろうねぇー。木製橋梁時の写真がチョッと見つからなかったんだけど‥
大正9年(1920)に架橋された地元の有志によって架橋された長さ150mの鋼製吊り橋は、橋梁名を大正の『正』と地元有志のヒトの名前から一字を拝借したそうな‥

両岸の離れが結構あるし、桁の間隔と高さってどんなだったのだろう?
資料によると、吊り橋は昭和32年まであたそうで、現橋梁は昭和46年竣工だから14年間は第2世代橋梁があったのでは‥?現橋梁は吊り橋の下流に鎮座していた名勝『饅頭岩』を施工上の都合で破壊したそうな‥。昔のお上の工事は、やりたい放題ですな‥

イメージ 3現況では、昭和46年の橋は吊り橋から下流に少しずれて架橋されており、吊り橋側の取り付け道路はちょっと旧道扱いな感じですな‥
正喜橋は、今でいえばJR八高線に沿っている県道飯能寄居線の橋梁ですな‥。大正9年(1920)に、地元有志によって架けられた最初の橋は、長さ150mの吊橋だったとのコト‥。写真参照

【資料】

【出展等々】
雀宮公園~寄居町玉淀~ 雀宮公園オンサイト時‥
作家池波正太郎と「京亭」(寄居・埼玉)『パンカップ店主の昭和的こころ』より‥
民話⑫ 正喜橋を作った人の話『はるんの気ままにぶらり』
9月第2週-京亭で鮎を食べる[荒川ゆらり]寄居発東京湾行き
寄居水位観測所現況カメラ
荒川の水量(玉淀ダム放流量)
荒川(寄居地区)友釣り専用区マップ
荒川 - 折原橋から荒川橋梁(東上線)まで 『きまぐれ旅写真館』内の玉淀付近の紹介ページ
きまぐれ旅写真館埼玉の土木構造物はこのサイトで勉強ですっ
ひさご旅館からの眺め!『割烹旅館ひさご』の窓から見た増水中の荒川玉淀河原
割烹旅館ひさご
武蔵イギリス海岸の白鳥渡来地‥玉淀の少し下流にある旧江南町の白鳥渡来地の岩盤露頭
『白鳥渡来地』と旧江南サイホン 江南サイホンと六堰頭首工
下ノ畑ニ南京椅子?岩手県花巻市『羅須地人協会』と『イギリス海岸』現在は北上川のダム整備により水位が上がり、泥岩層はなかなか見えないのか?単に梅雨期で水位が高いのか?