牛歩村日記? Like a snail's pace?

日々平穏に暮らしていれば、自から幸せになれると言いますが‥?いろいろ雑音が‥

一乗谷遺跡立体復原

GWを近頃は“5月の大型連休”と呼ぶ様になって久しい。
春は丹後半島の京都を訪れたが、今度は市内に行こうと中京圏の混雑を避け北陸道からアプローチ‥

イメージ 1長野ICから京都市内は中央道&名神の方がはるかに近い。北陸周りでも折角だからと、鯖江辺りのPAで休憩して地図を見ていると近くに永平寺が在ることに気づく‥
確か、昨年亡くなられた助役のお婆さまのお経を唱えに来られたお坊さんも、永平寺系だったなぁ‥っておぼろげに思い、鯖江ICで下車‥
1,000円ヨシヨシ‥

和田町越前漆器を眺め、永平寺へ‥
く予備知識なしで、愛用の昭文社ツーリングマップル(バイクツーリング用携帯地図)を眺めながら永平寺に向かっていたら、『朝倉氏遺跡立体復原』なる看板‥
「コレは寄らねば‥」って駐車場に車を滑り込ませる‥
一乗谷は、北國街道とも呼ばれる北陸道越前大野を結ぶ足羽川から少し南に入った谷で、文明3年(1471)~天正元年(1573)まで越前国を支配した朝倉氏の城下町で、織田信長に敗北し火を放たれ田畑に戻っていたのを昭和42年から発掘調査をし町並を復原しているとのコト‥。
ちなみに僕も助役サマも日本史にはそれ程明るくない‥

でも、“復原”じゃなくて“復元”じゃないの? 復元ってそもそも立体だろうし‥

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生活感のない旧街道筋や、土産物屋だらけの街並みはあまりそそられないのだけど、取りあえず入場料を支払い塀の中へ‥
受付に張ってあったポスターで「ん?」と思ったけど、あのsoftbank携帯電話のCMのロケ地だそうな‥

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復原された街並みに入ると‥ややっ!生活感の無い異次元空間‥            でも、素敵‥
でも、中央水路構造ではなかったみたい‥

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礎石以外は全て復原‥?と思ったが、遺跡の上に60cm覆土をしその上に礎石し建築物を配置したとのコトで、通りから門に入る時に本来無いはずの石段が作られている‥

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街道筋と言うより武家屋敷だったらい。染物屋、鍛冶屋、檜物屋、数珠屋等の商家が並んでいた。

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広大な武家屋敷の井戸跡にはかなり浅い水位に水が溜まっている。盛土しても水位まではままだろうに‥

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柱には栗、梁には松を使用している‥とのコト。

イメージ 10復原された建築物を良く見ると、全てに材に手斧(ちょうな)と槍鉋での加工を施して当時の仕上げを再現している。室町時代には台鉋が発明されているが、まだまだ普及していない。
かな?
そんな眼で全ての建築物を確認するが、全てがこの槍鉋仕上げ‥
果たして‥奈良は法隆寺はこんな仕上げになっていただろうか?
この凸部を全て滑らかに仕上げし直してツルツルにしたのだろうか?
建築の‥宮大工の歴史も奥が深い‥

イメージ 13そんな朝倉氏の館跡
ただ広い‥

兵庫県の豪族だった朝倉広景が南北朝時代に主家の斯波高経に従って越前に入国し、朝倉孝景の代に1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前を平定。以後、孝景、氏景、貞景、孝景、義景と5代103年間にわたって越前の中心として繁栄し、この間、京や奈良の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都と呼ばれた。
天下統一の戦いの中で1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼討ちにあい灰燼に帰した。