牛歩村日記? Like a snail's pace?

日々平穏に暮らしていれば、自から幸せになれると言いますが‥?いろいろ雑音が‥

東本願寺 京都駅

昨年の五月の連休に奈良の東大寺の大伽藍を参拝して、ココより大きな木造建築物は京都の東本願寺って聞かされたので、帰りに寄ってみたら大規模修復中で大きな大きな仮囲いに覆われていた。残念‥

昨年春にNHKスペシャルだったかな?大改修終了の放送があり、その大きな瓦屋根と作業員さんの御苦労と多くの門徒の寄進の数々を知る。これは是非お参りに行かねばっ!だいいち我家の宗派は”浄土真宗”だし‥。ん?親鸞浄土真宗本願寺って西本願寺?じゃあ、東本願寺は?“真宗大谷派”?
では、築地にあるアノエスニック調の築地本願寺は‥どうやら浄土真宗本願寺派で、西本願寺の別院に当たるそうな‥

戦国時代に浄土真宗一向宗本願寺教団の信徒たちがおこした一揆を掌握し、細川家や公家衆と関係を深め大坂の名の由来となった“石山本願寺”を拠点として、畿内を中心に権力を有した教団。
 浄土真宗本願寺教団第十一世法主顕如”は、石山合戦にて織田信長に包囲された石山本願寺からの退却時に長男の“教如”と対立、本能寺の変以後羽柴秀吉と和解し、大坂に天満本願寺(1585)京都の七条堀川に寺地を与える(1592)。顕如の死後豊臣秀吉は三男の准如を十二世法主にしてしまう。それに対して徳川家康は長男の“教如”に寺地を与え(1602)たのが“真宗大谷派”の東本願寺となった。
元の堀川七条の本願寺は東に対して西本願寺と言うようになるとのコト‥ 判るかな?

西に傾いた陽の中をせっせと烏丸通りを南下して東本願寺に近付く‥
なんとも嬉しいのは特に入場料がなくても参拝出来る。参拝料を徴収してお賽銭まで払っては、どうも‥
イメージ 1御影堂門からの御影堂。世界最大の木造建築物は大き過ぎて門の外からでしか画角に収まらない‥
御影堂は、重層入母屋造の一層式?(2層じゃないの?)の世界最大の木造建築物。現在の建物は、明治13年(1880)に起工し明治28年(1895)の完成で平成16年(2004)昨年平成21年(2008)にかけて総工費98億円で修復された。って、100年で大修復なんてチョッと早くない?






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 境内には色々なモノが展示されている。まぁ何処の宗教施設もソウだけど、門徒(信者)の寄進(寄付)により造られており、金額に応じて出身地と名前を掲示してもらう事になる。
 名前は書いてないけど、木材の運搬の際に使用された麻の引綱には女性の髪を撚合せて編まれている。写真の毛綱は越後の門徒から寄進されたも‥他にも新潟からの寄進物が多いのは、親鸞聖人が越後に流され布教をしつつ関東経由で京都に戻った為なのか?途中でわが家系も門徒の下部に編入されたのか?
修復工事で降ろされた明治瓦の再用化の一環で瓦がいたるところに使われている。さすがに大きいっ!

現在は御影堂の隣の阿弥陀堂の修復が行われており、大きな屋根に囲まれている。
この雁囲いの屋根は御影堂の修復の屋根をレールにてそのままスライドさせたモノ‥施工者の工夫が感じられる。相場の大きなステージ上から阿弥陀堂の参拝は可能で、普段見られない角度から屋根の瓦やら建築の構造が眺められる‥

 さて、次は西本願寺っ!って七条通りを西に歩き始めたけど太秦に置いて来た車の駐車場が閉鎖されるので諦めて京都駅に向う‥

 通称「西本願寺」は自分らが本流であるとして「本願寺」と呼ぶのだけど、上でも書いた様に秀吉の庇護で石山本願寺から天満本願寺らを経て堀川七条に本山を造営し現在に至る。
 西本願寺の御影堂は寛永13年(1636)。寛政12年(1800)に大修復をし今回の平成大修復に至っている。
東西どちらも世界遺産になっており、屋根の大きさでは西の方が広いのではないだろうか?
同宗教の時の権力者の違いで生じた近所のライバルなので、互いの広報でもあまり摩擦を起こす様な書き方はしていない‥みたい。

ささ、急いで京都駅に‥
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京都駅ビルはチョッと前に国際指名コンペで設計者には原広司氏の案が採用された。
現在でも賛否両論があるが、ガラスの東西に大きな壁を作っている。
京都駅は0から34番線まである大きなターミナル駅‥久々に二人で電車に乗る。
若い人の殆んどが駅舎内や電車内でスマートホンと睨めっこしていて、そんな時代なんだな‥って思う‥
イメージ 6ソウいえば、京都出身のF先輩の御実家は京都タワーが倒れたら壊れる(ほど駅に近い)って御自慢されていたけど、こんなに近いのかな?