牛歩村日記? Like a snail's pace?

日々平穏に暮らしていれば、自から幸せになれると言いますが‥?いろいろ雑音が‥

『月ぬ美しゃ~八重山うた紀行~』を視て民謡の背景を知る

NHKの『プレミアムカフェ』という再放送を解説入りで放送する番組をみた‥。

 NHKは『プレミアム』『セレクション』『アーカイブズ』とか名前を替えて結局は『再放送』繰り返し、『多チャンネル化』と『4K』だ『8K』だ『ウルトラスーパーハイビジョン』とか言って技術開発に投資を続けるのは如何なものかと‥

 番組の内容は、ハイビジョンスペシャル『月ぬ美(かい)しゃ ~八重山うた紀行~』(初回放送:2003年(H15))子守歌“月ぬ美しゃ”ほか、八重山地方で歌い継がれてきた歌の魅力をその八重山の自然と人と政治との関係を描きながら民謡の生まれ唄い続けられた景色を紹介している。
唄を歌い継いで来た八重山の姐さん達の、災害や戦争に苦難し翻弄されながらも唄を心のささえに生き抜いてきたヒト達の“底力”を見つめる指向‥。

イメージ 2
八重山列島とは
沖縄県の南西に位置する石垣島を中心に「西表島,竹富島,小浜島,黒島,鳩間島,新城島,波照間島,与那国島の九つの有人島及び、周辺の無人島(23島)からなる島嶼群を呼んでいる。  現在は、人口は約五万人、屈指の美しいサンゴ礁の海と、熱帯の自然を現在に残し、西表島は希少鳥獣保護区に指定されており、豊年祭や種取祭りなど、年間を通じて行われる島々の芸能は島ごとに独自の発展をしてきており『唄の島、芸能の島』と呼ばれる由縁となっている。
とのこと‥

 八重山民謡とは

16世紀を境に以前を『古謡』以降を『民謡』と呼び、「とぅばらーま」「デンサー節」「月ぬ美しゃ節」「鷲ぬ鳥節」「鳩間節」等、多くの唄が沖縄本島に持ち込まれ沖縄民謡風にアレンジされ親しまれている。 八重山の情景を描いた唄や、生活に根差した中から生まれる唄がほとんどで「アヨウ」「ユンタ」「ジラバ」など、三線を用いずに唄われる唄が多いのも八重山民謡の特徴。祭の場では神々への感謝として奉納されたり、民衆の楽しみとして演奏されます。こちらも元々三線の伴奏は無く、三線が伝来して伴奏が附き節唄となったとされる。

とのコト‥

八重山の村々は在番一行の接待を総動員であたり、その状況を歌ったものや、農作業の折々に掛合いで歌ったり、恋人を想ったり、情景を歌ったりしている。中でも役人の求愛に肘鉄をくらわしたという、竹富島のクヤマを歌った「安里屋ユンタ」や、強制的に役人の側女とされた子供がある人妻が、猫に例えて子供を思いやる母心を歌った「猫(マヤー)ユンタ」などが有名である。首里王府の圧政に抗する術もなく、ひたすら貢納の義務を果たすため働かされた八重山の人々の苦しみは、歌で紛らわすしかなかったのであろうか。

  

 
イメージ 3
フンフンってながら見していたのだけど、話題が『明和の大津波』のハナシになった時に意識をみけて画面と番組に向き合って視るコトにした‥。
『明和の大津波』はボクがいつも聴いているpodcast番組の『伊藤和明の防災えんす』という元NHK科学系番組ディレクターの方の番組で日本と海外の防災のハナシを判り易く解説してくれるモノ‥
この夏は引退されたみたいだけど、ボクの大好きなNHKラジオの『夏休み子供科学電話相談』の先生として番組開始当初から出演していらっしゃったヒト‥
【参考資料】第198回八重山の明和大津波 伊藤和明の防災えんす 防災を科学する

 八重山地震とは

1771年4月24日午前8時頃に八重山列島近海を震源として発生した地震。推定マグニチュード7.4-8.7。地震動による被害はなかった一方、この地震が引き起こした津波により先島諸島(特に八重山列島)が大きな被害を受けた。そのため、元号を取って明和の大津波ともよばれる。 震害はなかったが、地震により最大遡上高30m程度の津波が発生し、宮古八重山両列島で死者・行方不明者約12,000人・家屋流失2,000戸以上という惨事になった。 八重山では死者9,400人あまり、生存者18,607人で、14の村が流され、住民の3分の1が死亡。耕作可能地の多くが塩害の影響をうけ、農作物の生産が低迷。飢饉と疫病などにより明治時代初頭の人口は地震前の1/3程度にまで減少した。 石垣島における津波の最大遡上高については宮良村で「二十八丈二尺」85.4m に達したと記録している。しかし、85mより低い標高に位置する井戸が被害を受けなかったとの記録があることなどから、85.4mという遡上高は否定されている。GPSによる測量や数値計算の結果などから、遡上高の最大は石垣島南東部で30m程度と推定されている。 琉球王朝は被害地域の復興のため、被害の大きかった地域に他の島から入植させる政策を取った。最も被害が大きかった白保村には波照間島から418人、隣接する宮良村には小浜島から320人の島民を強制移住させた。 もともと違う方言を話していた地域から移り住んだため、これらの地区の方言、風習、芸能には21世紀になっても石垣市街の中心部とは違いが見られる。また、移住者は自分たちのために御嶽と呼ばれる祈祷の場を新たに設けたため、村内に複数の御嶽が存在する。
では、八重山の歴史は‥沖縄、琉球の歴史とともに勉強です
イメージ 1

 八重山諸島は12世紀頃は小国家として豪族?が居たのかな‥。
琉球王府は1500年八重山の「オヤケ赤蜂」を征討し、中央集権体制を次第に強化。
1609年薩摩藩が侵攻制圧、明国との関係もあり鎖国中の江戸幕府は傀儡国家として琉球王府を統治
琉球王府は、薩摩への増税の為、八重山宮古人頭税を課税。
八重山地震で明和大津波で壊滅的な被害があるも、強制移住させて開墾&納税を優先‥。
キリスト教や甘藷(のちの薩摩芋)が渡来する。
等々

 人頭税とは

沖縄本島にはなく宮古八重山先島諸島に課された差別的な税金で、一定の年齢に達したら否応なく課税され、賦課の方法は村の規模を上・中・下の3等級、人員を年齢によって上(21~40歳)・中(41~45歳)・下(46~50歳)・下下(15~20歳)に区分し、両者の組み合わせによった。上村上男女を14、上村中男女を12とし、以下順次この組み合わせにより最下位の下位村下下は4である。この頃の八重山の人口5482人、内15歳以上50歳未満の成人1819人(男865、女954人)で、正祖高2280石余のうち男子の米納807石は、一人平均9斗余、更に五出米が一人当たり1斗8升余で、計1石8升余となる。また、女子の反布代納4770反布一人平均5反布となる。加えて役人などの免税分も加算され、その上に在地役人の中には恣意的に収奪を重ねたとの様々な口碑が伝わっている。(沖縄タイムス社発行沖縄大百科事典)
とのコト‥
本島からやってくる役人の悪行もなかなかのモノ‥
与那国島に伝わる二つの伝承が有名である。一つは、予告なく突然にドラや太鼓を鳴らし一定の時間までにトゥング田(人舛田)に入るよう命令し、入りきれなかった者を殺したという「トゥング田」伝承である。二つ目が妊産婦を幅が1~3.5m、深さが約7mもあるくぶらばり(岩の割れ目)に集め、それを跳び越えるよう命令し、跳び越えることができない妊婦は胎児共々転落死させるという「くぶらばり」の伝承であるが、いずれも悲惨という他ない。これは人頭税が健常者、非健常者に限らず、或いは妊娠していようがいまいが、15歳になったら総て等しく課税の義務を負わされたことからきたもので、働けない弱者を排除し人口を調節する必要悪があったと考えられる。
内地のぼく等からすれば、なぜに琉球内でこの様な迫害があったのか?と言うコト‥
なぜ宮古八重山だけ人頭税の政策を発令したのか。それは宮古八重山沖縄本島とは異なり附庸国であったからだと言われている。つまり宮古八重山はかつて異国であり、成敗制圧した今、何をしても許されると首里王府は考えたのであろう。また後に、未開地を開拓し新村を開かせるために行った、八重山の強制集団移住をみても、人を人としてみない扱いがあったことは歴然としている。正に奴隷的な扱いを宮古八重山は強いられたのである。ちなみにこの政策を立案したのが、名政治家とうたわれている蔡温(具志頭親方)   薩摩の附庸国となった琉球王国は財政の建て直しのため、先島(宮古八重山)にのみ人頭税を課する政策をとった(1638年)。そして、在番や各間切りの頭をして住民を厳しく監督督励し、税(米や反布)を取り立てた。しかし、王府の財政は薩摩という重石がある影響で一向に好転せず、新たな政策を打ち出すことが求められた。これが八重山に発令された集団強制移住政策である。 この当時、石垣島西表島は面積も大きい割には人口が少なくかつ、山林や水に恵まれていたため新田を開き、耕作面積を広げ収穫量を増やすのに最適だと考えたからだ。 主な集団強制移住は下記の通りである。 ・1713年波照間から300人を移住し白保村(石垣島)を建設 ・1732年黒島から400人を移住し野底村(石垣島)を建設 ・1734年波照間島から400人を移住し南風見村(西表島)を建設 ・1755年波照間島から280人を移住し崎山村(西表島)を建設 集団移住のことを寄百姓(よせびゃくしょう)や島別け(シマバギ)とも言われているが、適正規模の人口を維持するためという大義名分もあった。移住者の選定は親子や兄弟関係、恋愛関係などは斟酌せず一方的に決められた。そしてあろうことかマラリアなどの病気が発生する未開の地を開くことを命じたのである。そもそも有病地であるゆえ人々はそこを敬遠し、病気のない島々に居住していたのであるが、王府はそのことを一切無視し、移住政策を強行したのである。正に税収を増やすためには手段は選ばずで、八重山の人々を奴隷の如く扱ったのである。
マラリアとは
麻剌利亜、「悪い空気」という意味の古いイタリア語 熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症。高熱や頭痛、吐き気などの症状を呈する。悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こし死亡する。マラリアは予防可能、治療可能な病気である[2]。全世界ではマラリアに年間1.98億人が感染し、うち58.4万人が死亡している。   日本最南端の有人島波照間島」には、「学童慰霊の碑」が建っています。 この碑は、沖縄戦の最中に西表島疎開して、そこで亡くなった波照間国民学校66名の慰霊のために建てられた物です。  この悲劇の原因は、西表島にあった「マラリア」という風土病でした。 ことの発端は、1945年2月にこの島に「教師」として赴任した「山下虎雄」という人物です。 彼は陸軍中野学校からスパイ(当時は「特殊工作員」と言いました)として送り込まれた人物でした。 陸軍中野学校では「酒井喜代輔」という名前でしたが、本名は「酒井清」だったようです。 なお、本文では歴史を語り継ぐため、「山下虎雄」という名前で統一します。 彼は波照間島民に対して優しい青年を演じつつ、スパイやゲリラ活動をしていたのです。  その頃米軍は日本軍を負かしつつ、沖縄に向けて進軍をしていました。3月下旬、突然山下は島民に「米軍が来るから西表島の南風見田(はえみだ)に避難せよ」と命令しました。そして、「米軍の食糧になるおそれがあるから家畜を殺すように」と命令してしまいました。(ちなみに家畜は石垣島に送られて、日本軍の食糧になったと言われています)しかし、島民は反発しました。理由はまず、「米軍が南に向かうなんて考えられない」ということでした。当時アメリカ軍は、すでに慶良間から沖縄本島に向けて進んでいたのです。  さらに、当時の南見はマラリアの有病地帯(1920年に廃村になっていました)なので、避難すれば感染してたくさんの死者が出る可能性が考えられたのです。すると、山下は本性を現し、日本刀を島民に見せて「逆らう者は叩き斬る」と言ったのです。これで島民は彼の命令に従わざるを得なくなりました。 4月8日から下旬にかけて、島民は対岸の西表島に船で避難し、南風見に向かったのです。その1週間前にはもう、米軍は沖縄本島に上陸していて、わざわざ波照間島まで来るようなことは考えられませんでした。この疎開は無駄なものだったのです。(一説には日本軍の食糧を供給するためだったといわれています) 5月から6月頃、西表島に避難した島民の間では蚊(マラリアは蚊を媒介として感染する病気です)が原因でマラリアが感染しました。薬がなかったので、感染者は次々と倒れ死んでいきました。この状況を見かねた国民学校の識名校長は山下に対して、「波照間島に帰してください」と頼みましたが、山下は完全に無視しました。そうこうしている間にマラリアの感染者は増え、どうにもならない状態に陥ったのです。7月30日、校長は石垣島の旅団に「波照間島に島民を返してほしい」と交渉し、承諾をもらいました。そして、島民は波照間島に帰還しました。  このとき識名校長は帰還時に「この悲劇を忘れないように」という意味で、「忘勿石(わするないし)シキナ」と石に書きました。(今でも西表島にあります)  なお、識名校長は波照間島民の惨状を見て、「もし自分がもう1人いたら、山下を海に叩き落としていたのに」と述べています。山下に対する島民の感情を表すエピソードの1つです。 しかし、本当の島民たちの悲劇はここからでした。島では家畜はほぼ全滅し、食糧もありませんでした。 さらに西表島からマラリアを持ち帰ったので、島民のほぼ全員(98%以上)が感染していました。全島民のうち、30%がマラリアで死亡したといわれています。中には、一家全員がかかったので死んでも葬式もできず、働き手がいなくて苦労した家族もいたほどでした。翌年1月に石垣島旅団司令部から食糧や薬が届きましたが、終戦後すぐのことなのであまり量はありませんでした。そんな中で島民を救ったのは、ソテツと少数の家畜でした。ソテツは毒があったのですが、島民はそれさえも沖縄伝統の調理法で食べました。 ところで、島民たちが苦しんでいる間山下はどこでどうしていたでしょう。彼は当初住民たちと一緒に避難していたのですが、すぐにマラリアの少ない由布島へ避難していったのです。(西表でも山下の体罰によって、何人かの人が死んだといわれています。)しかも彼には、住民には支給されていなかった薬が軍から大量に支給されていたので、マラリアにもかからずにすんだのです。ひどい話だと思うでしょう。  しかし、当時の日本軍では住民や部下を危険な場所に追いやりながら自分だけ安全なところに逃げることがまかり通っていました。例えば神風特攻隊の富永恭次が部下たちに「お前たちが全員死んだら俺も死ぬ」と言っておきながら、自分の番が回ると台湾に敵前逃亡していたことは有名な話です。満州ソ連が攻めて来たときも、民間人を犠牲にして軍人が真っ先に逃げ出したことがその後の被害を大きくした原因だと言われています。旧日本軍は特攻隊に限らず、人命軽視の組織でしたが、それはこの波照間島のエピソードでも同じでした。 戦後山下は処罰されることもなく1997年まで生き続けました。 そして3回も島を訪問したのです。彼によって被害を受けた島民は八重山における戦争被害は琉球政府文教局の『琉球資料集第一集』(1956・下記参考資料より孫引き)によると「空襲による死者174名、山地へ強制退避せしめたる結果、マラリアにより死亡したる者3647名、(以下物品被害を略)」というように、戦闘行為の犠牲よりマラリアの犠牲者数がはるかに上回った。結果的に八重山への上陸攻撃は行われなかった。
 
 上田市八重山民謡の教室を開いている助役サマの親友の公演には何度も足を運んでいるけど、あの唄のなかのお役人って人頭税取り立ての在番ののことなんだすな‥。なるほど、農作業唄って設定が良く判りました。なんとも辛い歴史があったもので、現在も沖縄や離島に対する差別まがいの謀略が続いているね。
 子供の学校でいじめ防止って言っている前に、異文化異人種間の迫害差別の認識が無いようでは終わりっこないよね‥。

 【資料】
沖縄の歴史Wikipediaより
“あたら島歌”公演 助役サマの親友が主催するイベント!ボクは駐車場係として貢献っ!
沖縄の歴史 琉球から沖縄へ。歴史がそのまま沖縄文化の礎に
八重山毎日新聞 視野は世界、視点は郷土

 
【追記】まだ読んでないけど‥ 
沖縄「戦争マラリア」―強制疎開死3600人の真相に迫る

沖縄「戦争マラリア」―強制疎開死3600人の真相に迫る

  • 作者:大矢英代
  • 出版社/メーカー: あけび書房
  • 発売日: 2020/02/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)