高野山に行くには紀ノ川沿いからは3ルートあるのだけど、なんだか見落として真ん中のルートの九度山って集落にやってくる‥。ん?真田祭?六文銭の旗が並んでいるぞっ!ナニやら真田親子が蟄居したトコってココなんだ‥。って車を停めて散策。
近頃は近所の人達が皆、真田家に家臣だったらしいので必然的?にチョッと興味を持ち始めている感じ‥
関ヶ原の戦いで、昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男・信幸(信之)は東軍に分かれることになり、昌幸と信繁(幸村)は上田城で徳川秀忠率いる軍勢を釘付けにし(第二次上田合戦)、秀忠の関ヶ原遅参の一因を作るが、戦いは東軍の勝利となり、昌幸と信繁(幸村)父子は死罪に処せられるところを東軍にいた兄信幸の嘆願により、これを免れる。「真田昌幸とその子信繁(幸村)に、所領没収並びに高野山蟄居を命じる」これに従って昌幸と信繁(幸村)父子は真田家の菩提寺である高野山蓮華定院に身を寄せたとのコト‥。(昌幸には16人の家来が随行、信繁(幸村)は妻同伴)しかし、信繁(幸村)が妻同伴の為その年の冬に庵を九度山に移し、ここで長男大助、次男大八、女子3人が生まれたとのコト‥。その跡地が善名称院(ぜんみょうしょういん)こと『真田庵』とのコト‥。 史実としては昌幸と信繁(幸村)父子が蟄居となっても、その所領は東軍についた長男・信幸(信之)に継承され、従前から任されていた沼田領と併せて都合9万5千石を知行することになり、『上田藩』を立藩したとのコト‥。 その後昌幸は病死し、と信繁(幸村)は大坂方に呼ばれて大坂冬・夏の陣で活躍するも激戦の末最期を遂げるとのコト‥。ボクも助役サマも日本史に明るくなくフンフン‥って感じである。
近頃は近所の人達が皆、真田家に家臣だったらしいので必然的?にチョッと興味を持ち始めている感じ‥
他所から来た浪人モノ&死罪相当なのに人気あるんだね‥。ビックリだヨ‥