前回の訪予でスケジュールの都合で屋根付橋の探索を断念していたので今回は半日の時間を割いた‥。
内子町と旧河内町(現大洲市)と多くの屋根付き橋が現存するのが知られているけど、全てを廻っていると2~3日かかりそうなので、特に気になる内子町の田丸橋と弓削神社の太鼓橋をピックアップ‥
内子町と旧河内町(現大洲市)と多くの屋根付き橋が現存するのが知られているけど、全てを廻っていると2~3日かかりそうなので、特に気になる内子町の田丸橋と弓削神社の太鼓橋をピックアップ‥
【田丸橋】
さて、観光客で賑やかな内子の市街から離れ、車をしばらく走らせると‥ あったあった‥
前回は暗くなり掛けた時間だったので、到底見付ける事の出来ないロケーション‥
さて、観光客で賑やかな内子の市街から離れ、車をしばらく走らせると‥ あったあった‥
前回は暗くなり掛けた時間だったので、到底見付ける事の出来ないロケーション‥
河内(かわのうち)の屋根付き橋(田丸橋) この橋は田丸橋といい、杉皮でふいた屋根付き橋です。幅2m、全長15m、橋桁を両岸から斜めに渡した木材で支え、橋脚を省いた構造です。これは昭和18年(1943)年、洪水で橋脚に流木がからまり流出した経験から、地元大工の工夫で河川をふわりとまたぐ姿になりました。 昔は、生活道と物産の倉庫も兼ねており、おい時の暮らしぶりを偲ぶ貴重な遺産となっています。地元住民より再見されて以来、今も田丸橋保存会によって大切に管理されています。 以下略
車道の広くなっているトコに車を停めてアプローチ‥
なんだか民家の裏から行くのか?私有地なのか良く判らないけど、踏み跡を辿って‥
なんだか民家の裏から行くのか?私有地なのか良く判らないけど、踏み跡を辿って‥
対岸にはまた民家が一軒‥もちろん他にも橋があり現在はそっちが生活路になっている(当たり前か‥)
棟梁の文字でも書かれていないかと橋の下に潜ってみたけど特になかった‥。
非常にバランスのとれた周囲のロケーションも良い橋ですな‥ ロケに使われる訳だ‥
【弓削神社・太鼓橋】
田丸橋を後にして、麓川をどんどん上流に向かい‥左岸の細い道を登ってゆく‥
間違えたか‥と思いつつもどんどん山の上に登って行くと突然弓削神社の正面に飛び出した‥
車をチョッと先の道の幅員のあるトコに停めてまずは池の周りから観察‥
田丸橋を後にして、麓川をどんどん上流に向かい‥左岸の細い道を登ってゆく‥
間違えたか‥と思いつつもどんどん山の上に登って行くと突然弓削神社の正面に飛び出した‥
車をチョッと先の道の幅員のあるトコに停めてまずは池の周りから観察‥
太鼓橋も‥なんか切ないくらいに構造が細くて儚い感じの素敵な橋だ‥
弓削神社の由来 弓削神社は、応永三年(1396)に、中世伊予国の豪族と言われた河野通直の子孫で、河野宋賢が創建したと伝えられている。 弓削神社は、河野一族の城主が石畳を離れる際に、天山城(中山町永木)の南にあたるこの地に神社を創建し、河野家先代の総支配下にあり、海の要塞であった弓削島・弓削神社から、「天照皇大神・天日鷲主命・三女命」を勧請して祭神とし、神社を自らの城に見立て、回りに池を築き「掘り」とし、中央に橋を架けて神を祀ったとされている。
早速助役サマから渡り初めです‥
近世に至っては、双海町高岸にある三嶋神社の末社として祀られ、明治43年(1910)岡の成・河内神社、恵比寿神社(所在地不明)等を合祀し、現在に至る。 弓削神社では、氏子の人達が「日参り信仰」続け、一日も欠かさすことなく旗を上げて「五穀豊穣と家内安全」の祈願が続く。 平成二十一年三月吉日 『満穂の昔』(上岡明夫著より)
対岸の弓削神社の方向です‥
振り返るとこんな感じです‥