1月3日朝、昼から浅間山の麓の助役サマ実家で新年の宴があるので早々に埼玉の実家を出るが、全く逆の方向の旧大里町の和田吉野川へ向う。
荒川との合流地点のチョッと上流に冠水橋が二つあるらしい‥
東松山市から旧吹上町に至る県道を北東に向かい、荒川に掛る大芦橋の手前から和田吉野川の土手道に侵入‥
荒川との合流地点のチョッと上流に冠水橋が二つあるらしい‥
東松山市から旧吹上町に至る県道を北東に向かい、荒川に掛る大芦橋の手前から和田吉野川の土手道に侵入‥
以前は道だったらしいトコにを止め、橋梁に近づく。 『老朽化の為閉鎖します 熊谷市』ってある。
そうか、荒川を渡ると熊谷って思って居たけど、合併で大里村が消滅したんだな‥
閉鎖とあるけど、渡ってはイケナイとはないしこんな隙間だらけの車止めではヒトの進入は防げない。
ソコから少し上流に行くと、二つ目の冠水橋がある。
こちらは稼動しており何人かの釣り好きなヒトが正月から釣り場を確保している様だ‥
やはり、橋梁は道が繋がっていないと、稼動していないとイケナイ‥ そんな対照的な二つの冠水橋‥
こちらは稼動しており何人かの釣り好きなヒトが正月から釣り場を確保している様だ‥
やはり、橋梁は道が繋がっていないと、稼動していないとイケナイ‥ そんな対照的な二つの冠水橋‥
その少し上流に大きな水門がある。
上部がドーム状で遠くからも視認出来、小麦のサイロか?って思っていたら水門だった。
玉作(たまつくり)水門との名で、荒川からの洪水時の逆流が和田吉野川へ流入するのを防ぐための水門。
上部がドーム状で遠くからも視認出来、小麦のサイロか?って思っていたら水門だった。
玉作(たまつくり)水門との名で、荒川からの洪水時の逆流が和田吉野川へ流入するのを防ぐための水門。
江戸時代に元荒川を流路としていた荒川は、1629年に現熊谷市の荒川大橋下流からこの和田吉野川まで掘削を行い、瀬替を行っている。下流域に新田の開発をする為と、元荒川の下流域から江戸市内の治水の為だったらしい。
瀬替えをした為に荒川の増水時には逆流を防ぐ為に、初代の水門は江戸時代に造られる。後に明治21年に煉瓦造りになったらしい‥ たいそう立派だったらしいけど、写真が見当たらない‥残念‥
現在の水門は2003年に竣工。
家康が江戸に来て以来、治水の為に利根川や荒川の瀬替、新鮮開発の為の見沼代用水掘削等様々な土木工事が行われていている。
近年は大きな水害の無い印象の関東平野だけど、先人の御苦労を感じると目に写る景色も違って見える‥
近年は大きな水害の無い印象の関東平野だけど、先人の御苦労を感じると目に写る景色も違って見える‥