牛歩村日記? Like a snail's pace?

日々平穏に暮らしていれば、自から幸せになれると言いますが‥?いろいろ雑音が‥

浅川油田

近頃『八ツ場ダム』に持って行かれた感じの『浅川ダム』‥。田中前知事が脱ダム宣言で標的にしたアレ‥
長野五輪時に、長野市街から各競技地に向かう為に整備された県道が数々ある。長野五輪モーグル会場の飯綱高原スキー場と、橇競技会場の『スパイラル』(共に長野市営)に向う県道506号通称“浅川ループライン”‥。

イメージ 5ループラインは長野五輪施設へのアクセスの為だけでなく、この日記でも何度となく取り上げている昭和60年の“地附山の地滑り”の為に廃道になった“戸隠バードライン”の迂回ルートとしての開発の意味合いもあった。

けど、本来旧県道に沿って北浅川沿いのルートを建設されると思うけど、“あたかも浅川ダムの予定地を避ける様に”ループ橋なんて土木構造物とトンネル2本も掘ってしまっている‥

まぁ、そんな“尾ひれ”ハナシはいいとして、この“真光寺ループ橋”の端に浅川油田の井戸址がある‥
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イメージ 3地附山側の山の斜面には、ブランドの神様『ブランド薬師』がある。
まさに井戸を取り囲む様なループ橋‥。そんなループの一部分に四畳半くらいの東屋があり、古いポンプが鎮座している。

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浅川油田の由来』
 浅川油田の石油採掘の由来は実に二百五十年間の長きにおよぶ。浅川真光寺の石油産出が最初に文献に登場するのは、江戸時代の宝暦三年
(一七五三)である。瀬下敬忠が『千曲真砂』の中で「地中より油湧き出る所有」と紹介したのが初出である。天明四年(一七八四)にこの地を
訪れた菅江真澄は、臭水(草生・くさそうず)がわく井戸が、川をへだてて二つ並んでおり、越後の臭水とだいたい似ていると記している。
 天保四年(一八三三)に刊行された井出道貞の『信濃奇勝録』には、浅川の岸辺に石油井戸が描かれている。弘化四年(一八四七)に起こった
善光寺地震に伴い、燃えるガス(風草生水・天然ガス)が噴出し、この辺りは新地獄と呼ばれた。権堂村の名主であった永井善左衛門は、この
ようすを見学して、『地震後世俗語之種』の中に一枚の絵として残している。
 安政三年(一八五六)になると地元真光寺村の新井藤左衛門は、越後の人の教示によって十二本の井戸を掘り、一昼夜に十石(一・八立方メー
トル)以上の算出をみたという。後に藤左衛門は石油の神様の持国大明神として祭られた。
 明治三年ころには、藤左衛門の後継者の新井藤八はじめ数人の石油業者がみられたが、この浅川の石油をもとに日本で最初に石油会社を創
設したのは飯山桑名川出身の石坂周造である。明治四年(一八七一)八月、信越等五国の石油開発許可を受け、資本金三万円で日本最初の長野
石炭油会社(当時は石油とはいわずに石炭油と呼んでいた)を設立し、本社は、東京神田明神下の大岡越前守屋敷跡(現外神田三丁目、許可は
明治五年七月)に置いた。
 明治四年前半の産出量は七百十六石(百二十九立方メートル)で、石坂は石堂町苅萱山西光寺境内に日本最初の石油精製所をつくり、伺去真
光寺村で堀田石油を荷車や馬の背で運んで石油の精製を始めたのである。
 明治五年(一八七二)には会社の名を「石油会社」に変更し、多額の設備投資をして新しい機械を購入したが、産出量は千二百四十石石余(二
百二十四立方メートル)であまり増えず、長野、静岡、新潟に鉱区を広げ、アメリカより取り寄せた機械で機械掘りを始めたが失敗に終る。
 明治八年には長野製油所を道路を挟んだ南石堂町内に移転して西洋風の社屋を建てるが、二年後の明治十年十二月には消失し、明治十四年に
は石坂もこの会社からてを引いたために、この会社はつぶれてしまう。
 その後も西沢源治らによって石油の採掘は続けられたが、産出量が少なく、質もよくなかったことから井戸は次々と閉鎖されていった。最後
まで残ったのは有賀扇作と酒井実である。有賀は昭和十六年(一九四一)から始めて昭和四十八年(一九七三)まで採掘を続け、酒井実は大正九年
(一九二〇)から操業をはじめたガラス工場の燃料として使用してきたがプラスティックの登場により昭和四十二年(一九六七)に廃業した。現在、
石油井戸だけが残され、ここ浅川ループラインの道路脇に残されているのである。
 長野県では飯山富倉でも石油が採掘されたが、石油井戸は現存していないため、この石油井戸は長野県に残る唯一の石油井戸でもある。        
浅川地区市制一〇〇周年記念事業実行委員会
西暦645年に善光寺が現在の飯田市から移り、現在の信州大学教育学部付近から善光寺の表参道付近までの緘傾斜地を“長野”と呼んだ長野村は善光寺門前町と北国街道の宿場町として周囲の村々との合併を重ねて肥大化し、明治5年に水内郡伺去村、真光寺村、清水村に分かれていた伺去真光寺村が統一され、明治22年に周囲の村と合併して浅川村となる。 1954年に周囲町村と同時に長野市編入され現在に至る。
そんな、浅川地区の100周年記念事業と言う事の掲示である為か、文章もチョッと変だが“日本初”って言うのもチャンと裏を取らないと“眉唾モノ”‥

イメージ 4油田があったなんて‥なんとも素晴らしい‥
旧道から回り込むとそこ辺りは浅川ダムのダム軸辺り、工事業者の入札は済んでいるが国の補助金が凍結されれば‥
どうなんのかな?

まぁ、今度は国内の油田でも訪問してみよう‥(*´ω`*)ノ
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