牛歩村日記? Like a snail's pace?

日々平穏に暮らしていれば、自から幸せになれると言いますが‥?いろいろ雑音が‥

普賢岳で地球を感じる‥

1934年(昭和9年)日本で最初に国立公園に指定されたのが雲仙と瀬戸内海、霧島の3か所‥
なんで日本のはるか西国で‥ってずっと思って来たけど、早くから開港していた長崎に近い事もあり上海租界地の保養地として発展したという。
なるほど、“日光ケッコー”とか言う前に既に異国に被れていたってコト‥

 

そんな雲仙周辺に僕の意識が向いたのは、1990年(平成2年)11月の噴火からはじまり1991年(平成3年)6月3日の火砕流の鮮明な映像を見てから‥

 

温泉地が大好きなのも地球を生命体として感じる事が出来るから‥
そんな今回の訪九は、雲仙普賢岳火砕流跡のその後を現場で“感じて”見たかった‥ってコト‥
詳しい地図で見る
島原半島を上空から見ても、普賢岳火砕流跡は鮮明に判る‥ 諫早湾干拓地もかなり広いけど‥
国交省の“天下り箱施設”雲仙岳災害記念館の敷地も広い‥
その近くの『水無川』の橋の上から普賢岳方向を眺める。
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名前の通り“水の無い川”‥ 土木の本で見た事のある『導流堤』やらが両岸を護っている。
辺りの田畑も区画整理がされている。災害前はどんなだったのだろう‥

 

水無川を見下ろせる島原市郊外の眉山の中腹をはしる『まゆやまろーど』から水無川を見下ろす。
この先にも“天下り箱施設”『平成新山ネイチャーセンター
途中、北上木場農業研修所丸々集落に至る小道があったが、その方向も全くの河原だけ‥
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この広大な河原と思えた荒地が‥

 

対岸の左岸に渡りさらに普賢岳に近付くと、これまた“天下り箱施設”大野木場砂防みらい館と思ったら大野木場砂防監視所と言う工事従事者が再度火砕流に遭わない様に監視し、避難し一日位は酸素や飲料水、食料が備蓄されている‥
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このフロアーの階上が監視所になっている。今日は日曜なので災害復旧作業はお休みらしい。

 

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広大な荒地と思ったが、火砕流の堆積物らしい‥ 
もっと火山灰みたいな細かい灰みたいなモノと思っていたのに‥
しかし、溶岩ドームが崩れただけの堆積量ではない事は(写真の点線から)容易に想像出来る。美田が広がっていたって書いてあったけど、こんな量の噴出物で埋め尽くされて想像を絶するね‥コレばっかりはテレビ見てただけじゃ判らなかった‥
地球って凄いね‥まだまだ、今の地形図って最終ではないよね‥あたりまえだけど
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こんな画像もあった‥火砕流直後の報道陣のいたいわゆる“定点”
この時点ではあたり一面の棚田がそのまま見える‥
って事は、火砕流後の度重なる土石流で全て埋まってしまった‥ってコトなのか‥

 

写真の右に大きく曲がった火砕流‥だが、熱風は迂回せず真っ直ぐ大野木場小学校方向に向った‥

 

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有名な『逃げる消防団員』の写真。迫り来る火砕流に世界中が驚いたモノ‥
この監視所に隣接する大野木場小学校跡‥  逃げ惑う小学生は無事助かっているらしい

 

迫力のある写真‥ この噴煙の下で沢山のヒトが被災している。

 

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被災したのはヒトばかりではない、子豚ちゃんも居た堪れない‥

 

しっかし、埋まってしまった家屋や田畑は登記上どうなっているんだろうか‥?
河川は基本的に“官地”なんだろうけど、強制執行されたのかな?


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現在の大野木場小学校と監視所‥ きっと校歌にも普賢岳が歌われているんだろうな‥
小学校は近所に新しく再建されているようだ‥

 

メディアで連日報道されていた雲仙普賢岳だが、この様なスケールの地球の活動なのかは来てみなくては感じる事は出来なかった‥

 

【参考資料】
普賢岳写真集(スライドショーがチョッと速いです‥)
雲仙岳災害記念館 
普賢岳火砕流YouTube
火砕流YouTube

 

【参考資料2】
島原大変肥後迷惑(しまばらたいへん ひごめいわく)
1792年に雲仙普賢岳の噴火と山麓眉山の山体崩壊とそれに起因する津波災害。対岸の肥後国(現熊本県)に大きな被害を与えたらしい。
『島原大変』での死者が約5千人。肥後熊本側では約1万人と言われている。『肥後迷惑』
返し波が4往復したとのコト‥ 有史以来日本最大の火山災害とのコト‥

 

1637年が『島原の乱』勃発だよね‥。いろいろ大変な土地柄‥
宗教に頼りたくなるのだろうか‥

 

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